おもに18日観音様の法話を掲載しています。
今日は、2月18日観音様の日であります。
今から2644年前にお釈迦様が生まれ、八十歳で涅槃寂静、お亡くなりになりました。
お釈迦さまがお亡くなりになることを「涅槃に入る」ということから、その時の様子を描いた絵を、涅槃図と言います。
今現在、心月斉でも、本堂の右側に御開帳してあります。
曹洞宗の多くの寺院では、お釈迦さまが入滅したとされる二月十五日に合わせて涅槃図を飾り、お釈迦さまを偲ぶ涅槃会法要が執り行なわれています。
涅槃会の法要は、少なくとも奈良時代には営まれていたとされています。
日本最古の涅槃図は高野山の金剛峯寺が所蔵しており、時代背景や人々の願いを反映させ、さまぎまな構図を表しながら全国へと広まっていきました。
日本最大とされる涅槃図は、京都の泉涌寺(せんにゅうじ)にある、高さ十六メートル、横八メートルもあるそうです。
愛知県名古屋市博物館の最大の絵が涅槃図だそうですが、大きさは3.42m×2.73mだそうで、その絵は心月斉の涅槃図(3.2m×2.7m)とほぼ同じぐらいです。
この涅槃図は、お釈迦様のお徳が最も偲ばれるものであります。
そのお徳について、少しお話を致します。徳とは、辞書では、立派な行い、人柄の総称。ありがたく思うこと、と書かれています。昔でいいますと、人を見て、「ありがたや、ありがたや」と思うことでしょう。
佛教では、徳が外にあらわれるというのは、財宝をたくさん持って、ご供養が多いといって得意になることをあらわすことではないと書かれています。
徳が外にあらわれるというのは、三段階あるといいます。
第一に、あの人は仏道修行をしている人だと皆に知られることである。第二に、その道を慕ってついてくる者が出てくること。第三に、その道を一緒になって学び、同じように修行をするようになることであると。
こういうのが、佛道の徳が外にあらわれるということであると。
これを思って涅槃図を見てみますと、皆さんも、後で見て頂ければいいと思いますが右上に描かれているのがお釈迦さまの生母、摩耶夫人です。摩耶夫人はお釈迦さまの生後七日目に亡くなったと伝えられています。
摩耶夫人は、今まさに涅槃に入ろうとしているお釈迦さまに長寿の薬を与え、もっと長く多くの人にその教えを説いてほしいとの願いからやって来ました。
摩耶夫人を先導している人が、阿那律尊者です。阿那律尊者は、お釈迦さまの十大弟子の一人です。
お釈迦さまの枕元の木に描かれている赤い袋が、摩耶夫人がお釈迦さまのために投じた薬の入った袋です。
「投薬」という言葉はこの故事が元になったとも言われています。この薬は摩耶夫人の願いもむなしく、お釈迦さまに届く前に木に引っかかってしまいました。また、衣鉢袋と言われることもあります。
お釈迦さまの周りを囲んでいるのは沙羅双樹の木、向かって右側の四本は白く枯れています。
これは、お釈迦さまが入滅されたことを人間や動物だけでなく、植物も悲しんだことを示しています。
一方、左側の四本は青々と葉を広げ花を咲かせています。お釈迦さまが入滅されてもその教えは枯れることなく連綿と受け継がれていくことを示しています。
多くの人々の中で唯一お釈迦さまのお体に触れている人物がいます。
お釈迦さまに乳粥を施したスジャータ、または、お釈迦さまの教えを聞こうと訪れたが時すでに遅く、悲しみに暮れる老女など、諸説存在します。
お釈迦さまの側で悲しみのあまり卒倒している人物が十大弟子の一人、阿難尊者です。長くお釈迦さまの身近でそのお世話をした方であります。
その近くにいる阿泥樓駄(あぬるだ)は、清冷なる水を阿難尊者の顔に注いで助け起こし、次のように語ったと伝えられています。
「阿難よ、たとえ仏が涅槃されても、この上ない御仏の教えはこの世にとどまって、ひとびとの依り所となるであろう。わたしたちは精進して、御釈迦様が遺されたこの上ない、み教えを人々に伝え、衆生を救い、この恩に報おうではないか」と。これによって、阿難尊者はようやく正気に戻ることができたといわれています。
その他に、たくさんの神々、弟子や悲しみに暮れる人々、数々の動物たちが、お釈迦様のお徳を偲び、集まってきています。
2月末日までは、開帳してありますので皆様に見て頂ければと思う次第であります。
(02/18 心月齋 観音堂にて)
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